2008年08月29日
石舟
今回は下谷の集会場斜め前にある『石舟』について。
この大きな石は、もともと横を流れる天満川の中にあった7個の岩の一つだったそうだ。
その中に、2基舟の形をしたものがあったので『石舟』と呼んでいたとか。
かつてこの場所には『松尾神社』があり、祭神である『大山祗命』がこの『石舟』に乗って東谷に来られたという伝説が残っていることから、『御神舟』とも言われたらしい。
この『石舟』は、道路拡張工事に伴い発破され石積みにされる運命にあった。
他の石は次々と発破され土台となり、残るは『石舟』のみと石工が発破穴を掘ると、突然腹痛と発熱を訴え、とうとう発破が出来なくなってしまった。
どうやらこの石を掘った祟りだろうと、御祓いをしてからそのままの姿で道路脇に置くこととなった。
今でも痛々しい発破穴の後が残っている。
現在は『石舟』の周りは公園になっているので、道を通る人に「あれ、なんな~」と聞かれることも多々ある。
また、この『石舟』が屋号になっている家もある。
この大きな石は、もともと横を流れる天満川の中にあった7個の岩の一つだったそうだ。
その中に、2基舟の形をしたものがあったので『石舟』と呼んでいたとか。
かつてこの場所には『松尾神社』があり、祭神である『大山祗命』がこの『石舟』に乗って東谷に来られたという伝説が残っていることから、『御神舟』とも言われたらしい。
この『石舟』は、道路拡張工事に伴い発破され石積みにされる運命にあった。
他の石は次々と発破され土台となり、残るは『石舟』のみと石工が発破穴を掘ると、突然腹痛と発熱を訴え、とうとう発破が出来なくなってしまった。
どうやらこの石を掘った祟りだろうと、御祓いをしてからそのままの姿で道路脇に置くこととなった。
今でも痛々しい発破穴の後が残っている。
現在は『石舟』の周りは公園になっているので、道を通る人に「あれ、なんな~」と聞かれることも多々ある。
また、この『石舟』が屋号になっている家もある。
2008年08月29日
額谷小学校
東谷時間旅行とは、毎月発行のコミセン便り『がくたに通信』にて紹介している、東谷のいろいろな話である。
今回はコミセン便り『がくたに通信』の由来である『額谷小学校』について。
東谷コミュニティセンターの裏手にある青木商店。
その前を流れる天満川に架かる橋を渡り、坂を上って行くと大きな石碑が建っている。
その山手側に『額谷小学校』があったそうだ。
もともとは、高松藩の年貢米の収納所だったところを、維新の改革により学舎にしたとか。
『額谷農業補習学校』が付設されたり、『安原村立額谷国民小学校』や『安原村立額谷小学校』と校名の変遷を辿る。
明治の三村合併時に『塩江町立東谷小学校』となったが、一ヶ月後には境界線の変更に伴い、 『香川町立東谷小学校』となった。
その石碑の場所から現在のコミュニティセンターの場所に移転したのが、大正十五年と言われている。
昭和四十四年には、児童数が四十二名となり『川東小学校』に統合される。
『額谷』という、東谷の中心にあった思い出を何らかの形で残したく思い、センター便りの題名に引用しました。
今回はコミセン便り『がくたに通信』の由来である『額谷小学校』について。
東谷コミュニティセンターの裏手にある青木商店。
その前を流れる天満川に架かる橋を渡り、坂を上って行くと大きな石碑が建っている。
その山手側に『額谷小学校』があったそうだ。
もともとは、高松藩の年貢米の収納所だったところを、維新の改革により学舎にしたとか。
『額谷農業補習学校』が付設されたり、『安原村立額谷国民小学校』や『安原村立額谷小学校』と校名の変遷を辿る。
明治の三村合併時に『塩江町立東谷小学校』となったが、一ヶ月後には境界線の変更に伴い、 『香川町立東谷小学校』となった。
その石碑の場所から現在のコミュニティセンターの場所に移転したのが、大正十五年と言われている。
昭和四十四年には、児童数が四十二名となり『川東小学校』に統合される。
『額谷』という、東谷の中心にあった思い出を何らかの形で残したく思い、センター便りの題名に引用しました。